彼の居るぬるま湯

by もちみ


 僕が握っている鋭利なソレは簡単に彼の首を切り裂ける位置にある。手を滑らせれば大量の血飛沫が上がることだろう。しかし、背を向けたままの彼は万が一にも自分の首が狙われるとは思っていない。もちろん僕の方にもそんなつもりは毛頭ない。が、かつて大勢の人々を殺めた事実は決して消えることはないのだ。絶対に何もするわけがないと信頼することが本当にできるのだろうか。粘着質な赤い液体が染め上げたこの手に触れられても嫌悪感を抱いたりしないのだろうか。
 そんなことに思考回路は傾いたまま、彼の項を通り過ぎた刃物を綺麗な紅い髪へと向ける。
 そう、今は悟浄の散髪をしている最中だ。刃物というには心許ないただの鋏で彼の細い髪を切りそろえていく。
「ちょっと無防備すぎやしませんか?」
「んー? ナニが?」
 パラパラと雑誌をめくるその姿には警戒心の欠片もない。
「今の貴方は刃物を持った大量殺人鬼に後ろをとられてるんですよ?」
 こんなことを言ったらどんな反応をするだろうか。
 雑誌をめくる手が止まり、溜め息を吐かれる。鋏を動かすのをやめて言葉を待っていると、座ったまま上を向いた彼が僕と目を合わせた。
「なーによ、ネガティブ入ってんの?」
「ネガティブ…ですか?」
「ネガティブだろーが。」
 こぉんなに皺寄せやがって、と腕を伸ばして僕の眉間をグリグリと押してくる。自分では普通の顔をして笑顔すら浮かべていたつもりでも、この人にはすぐにバレてしまう。本当に他人のことに関しては鋭い。
「怖くありませんか?」
 僕の犯した罪が。真っ赤な手が。僕自身が。
「怖い」と言われることが怖いのに、聞かずにはいられなくて目まぐるしく回る思考。確かにこれはネガティブかもしれない。なんだか居たたまれない気持ちになって、そっと目を伏せた。
「べぇーつにぃー」
 さも興味ないという風に返され、安堵の息を吐く。ゆっくりと目を開けば、口の端を釣り上げて悪戯っぽく笑う顔。
「殺されても本望! ってくらいお前のこと愛しちゃってんのよ」
「なに、言ってるんですか…」
 いくら平静を装ってみても内心焦っていることはお見通しなんだろう。照れているのを誤魔化すように苦笑する僕の首に彼の腕が回された。そのまま引き寄せられて、唇が触れ合う。
「お前の手はさ、俺のことを悦ばせるためのモンだから」
 まるで夜の営みを連想させるその文言。
「誘ってます?」
「違ぇよ」
 カラカラと楽しげに笑う顔が、やはりこの人には敵わないと思わせる。細められた紅い瞳は優しい光を灯していた。
「あんま細けぇコト気にしてんなよ?」
「はい」
 こんなに簡単に悟浄曰くネガティブな僕の思考は払拭されてしまう。
 僕の犯した罪は消えない。でも、真っ赤な手は洗い流せるし、僕自身も確実に変わってきている。そう丸め込まれた気がするがそれも悪くない。このぬるま湯に浸かっているのはとても心地良いから。
 散髪の続きをしようと鋏を持ち上げて見せると察した彼が前を向く。再び細く綺麗な髪に鋏を入れると機嫌良さげな鼻歌が聞こえてきた。


「髪、ゆるふわにしてもいいですか?」
「んー…。好きにすれば?」
「動くとやけどしますからね?」
「…おう」



【END】