嫉妬の楔
by KUKO何の気なしに視線を横に移すと、商店と商店の間、路地の向こう側を悟浄が横切ったのが見えた。
まだ日差しが強い時間。 一時間程前に三人を宿に残して一人で買い物に出た。 両手で抱えた茶色の紙袋には、旅に必要な物がぎっしりと詰まっている。食料品、薬、三蔵と悟浄の煙草、悟空用のお菓子などなど。 野宿が続いて疲れているだろうと思ったから一人で出掛けたのに、遊びに出るなら荷物持ちくらいして欲しい。
悟浄が歩いている道に向かう。今歩いているのは中央通で、悟浄が歩いていたのは一本中に入った路地裏だ。夜間営業の店が軒を連ね、昼間はシャッターが閉まっている。その間、シャッターの前に露天商が店を出し、アクセサリーや絵画、下手物料理、飴細工などを売っていた。
悟浄を見付けるのは容易い。露店の前で足を止め、何やら物色中のようだ。そっと近づいて声を掛けようと道の端を進む。袋の中でお酒の瓶がぶつかってカタカタと音を立てた。重い。悟浄が何かを掴み、太陽の光に翳す。その横顏は真剣そのもので、出す牌を考えている表情と似ていた。
足を早め、悟浄の名前を呼ぼうとした時、金髪の女性が悟浄の顔を覗き込んだ。
止まってしまった脚を何とか動かし物陰に隠れる。深呼吸をしてもう一度悟浄の方を見た。悟浄はまだ品物を凝視していて、女性はその腕に自分の腕を絡め肩に顔を乗せていた。女性に顔を向けた悟浄の表情は自分の方からは見えない。笑っているだろうか。優しく。それとも鼻の下をのばして。二人の雰囲気は邪魔出来るようなものではなくて、歩き去る人々が羨ましげに見る程、そこだけ色が違っていた。
中央通へ戻る。あと必要な物は裁縫道具だけだ。昨日の戦闘で派手に破いた悟空のマントを縫わなくてはいけない。悟浄が寝煙草で穴をあけたズボンも修繕しなくてはいけない。そう、早く宿に帰って明日の仕度をしよう。
悟浄のことは考えない。考えたところでどうしようもないことなのだ。緩んだ心に釘をさす。真剣な眼差しも、悩ましい表情も、僕に向けられることはないのだから。
比較的大きな街で、宿は幾つもあった。けれど、シングルルームはどこもうまっていて、仕方がなくツインルームを二つとった。くじで決めた部屋割りは三蔵と悟空、八戒と悟浄になっていた。悟浄は夕ご飯にもきっと帰ってこないだろう。夜中、ベッドにジープを休ませられるので丁度良い。
ジープのために果物でも買って帰ろうと果物屋に寄り道をする。食欲の秋を盛り立てる色とりどりの果物が並んでいた。
「梨が良いんじゃねえの。綺麗な色じゃん」
横から声を掛 けられる。誰かなんて顔を見なくても分かる。
(綺麗な色か)
昔そんな風に声を掛けたことがあった。別人のように髪を切った悟浄に。あの時僕は何を思っていただろう。お礼でも言おうと思っていたのだろうか。それとも言い訳だろうか。悟浄はどうなのだろう。数分前の悟浄の姿が脳裏を過った。
「もう秋ですね。柿も出てる」
悟浄の話は無視して葡萄と柿を買う。悟浄がこれもと言って買った梨のせいで渡された袋が倍も重くなった。足下に置いた袋を悟浄が抱えてさっさと宿に向かって歩き出す。悟浄の背中はいつもより浮かれて見える。その背中に追いつかないよう、二歩下がって歩いた。
「体調でも悪いのか」
振り向いた悟浄が僕の顔を覗く。あの女性にはどんな顔をしていたのか。そんなことを考える自分が情けなくて、悟浄の横を通り過ぎる。こういう時、悟浄の聡さが厄介だ。派手な触覚を生やしアンテナをはっているだけのことはある。「無駄遣いし過ぎたと計算していたんです」と返した。
悟浄のポケットの中には、さっき物色していた女性へのプレゼントの領収書がくしゃりと丸めて入っているはずだ。悟浄が声を掛けたのはきっと言い訳。そんな物を三仏神のお金で買う訳にはいかないと、何度も言っているのに。
宿に戻りお風呂に入って次の日の用意をし終わっても、悟浄は部屋にいた。しばらくは悟空と遊んでいたが、随分前に眠くなったと悟空が部屋に戻った。何もすることがなく、ジッポの蓋を開けたり閉めたりしている。カチンカチンという規則正しい音が、荒立った心に突き刺さる。
(つまらないならどこへでも行ってしまえば良いのに)
悟浄があけたズボンの穴に、当て布をして縫っていく。ズボンと同じ色の糸を買ったつもりが、少し明るかった。縫うごとにその跡が目立っていく。どこにでも行ってしまえなんて、嘘もいいところだ。
「珈琲飲むか」
「...はい」
声を押し殺し、手元に集中する。少しはこの跡がマシになるようにと。
眠りについて少し経った深夜二時。外の気配がおかしくなった。宿の裏側は森になっていて、その向こうから妖気が迫っているのを感じる。自分達を狙っているのは明らかだ。眠っている最中なら倒せる可能性があると思っているようだが、寝起きで機嫌の悪い僕達を相手にするのはどんな時よりも危険だ。
宿から出て外で相手をしようと身支度をする。が、敵は既に宿に入り込んでいるようだ。隣の部屋の様子を確認する。物音一つしない不自然な程静まり返った気配から意図を汲む。
「結構いるな」
悟浄が言う通り、大所帯での襲撃だ。頭数だけ揃えた野良妖怪だろうか。それとも組織立って攻め入って来る牛魔王の刺客だろうか。後者ならそれなりの準備をしているだろう。
(外は僕が相手をします。悟浄は宿の中を)
(了解)
目配せで確認する。隣は三蔵が外、中が悟空だろう。遠距離戦が出来る二人が外からの攻撃を阻む間に、宿内にいる敵を倒した近距 離戦の得意な二人が外に出る。よくあるケースだ。
部屋の扉の前に数人の妖怪がスタンバイしている。何らかの合図で一斉に中に入り込んで来るつもりだろう。そちらに気を取られているうちに外から砲撃があるかもしれない。八戒は窓から見えない位置に潜んだ。
「キャァァァァアア」
廊下に女性の悲鳴が響く。それが合図かのように妖怪が傾れ込んで来た。
「三蔵一行、覚悟」
妖怪が部屋に入ってくるのを後ろに感じながら窓から外を見下ろす。待機していた敵がカノン砲を撃ち、砲弾が飛んで来る。隣の窓から顔を出した三蔵が魔戒天浄を発動した。砲弾は爆発することなく空高く上がり、敵地に落下した。その後を追うように砲台に気功砲を撃ち込む。今度は物凄い爆発が起きた。夜の闇に突如明かりが灯り、辺りの様子がよく見えるようになる。煙を飛び越えて森から溢れ出す妖怪達。間髪入れず気孔砲を撃ち込んだ。
敵の動きが止まった。陣形を整えるためか、森へと撤退して行く。戦い振りから牛魔王の刺客だろうと判断した。部屋を見ると数人の妖怪が倒れていた。息をしている者に頭数や作戦などの情報を聞き出した方がいいだろうか。目が合った妖怪に笑みを浮かべて近づいて行った。
その時足音が部屋に迫って来た。扉を見ると、悟浄が女性に手を貸して入って来るところだった。女性を部屋の隅に座らせ、水を差し出す。渡されたコップを持つ手は可哀想な程震えている。さっき悲鳴を上げた女性だろうか。女性に上着を掛けて悟浄が話しかけている。
ドクンと心臓が鳴った。
突如二人の身体が消えた。何が起きたのかわからない。辺りが暗くなったからだと気が付いたのは三蔵の声が聞こえてからだった。
「八戒」
窓に妖怪がいた。窓枠に乗ったことで外からの明かりが遮られたのだ。三階までどうやって登って来たのだろう。三蔵の銃声がしたが妖怪には当たらなかった。不意打ちで対処が出来ない。妖怪が自分に手を伸ばし窓から落とそうとする。いつもなら踏ん張れるはずの脚には力が入らなかった。窓から上半身が出て、一気に自分の重みを感じた。
こんな時に冷静になれるのは場数を積んだおかげか。宿は三階。ちゃんと着地さえ出来れば怪我すらしない。体勢を整えるために、身をねじった 。
すると、何本もの鋭い槍が地面を覆っているのが見えた。
身体に衝撃が走る。痛みを耐えるために息を止め、数秒をやり過ごす。静かに息を吐き出す。激痛に身構えたが身体には叩き付けられたような衝撃の名残を感じるだけで、後頭部にしか鋭い痛みを感じなかった。
ゆっくり眼を開けると、あるはずの空は無かった。それが宿の部屋の天井だと分かると、妖怪たちの咆哮と、銃声、物が壊れる音が耳を貫いた。横には先ほどの女性が口を大きく開けて窓を見ていた。横に悟浄はいない。立ち上がろうとすると、何かに引っ張られて地面に倒れこんだ。
鎖が身体に巻き付いて、足下の床には鎌が刺さっていた。
慌てて立ち上がり窓に駆け寄る。三蔵が銃を連射していた。飛び出して来た妖怪達が一斉に宿に向かって走って来る。そこに悟空が飛び出して来て如意棒で蹴散らした。その悟空の後ろ。僕の真下に、悟浄がいた。
全ての敵が宿ではなく悟浄に向かっているのだと分かる。一矢報いるために一人でも倒そうと一斉攻撃を仕掛けて来たのだ。
外に出て悟浄に駆け寄る。槍は一本も身体に刺さっていなかった。槍と槍の間に身体をすっぽりと挟ませていた。が、槍の先に仕込まれた毒が、引っ掻いた傷から体内に入ったようだ。悟浄の身体が痙攣している。常備している解毒剤を飲ませ、傷口の治療を始める。悟浄は荒い呼吸を吐き続け、汗が吹き出していた。
敵を遠ざけるために三蔵と悟空が森に入った。それを気配と物音で感じる。
毒が血液を経て全身に回る。その進行を遅らせたいが、傷口が多すぎて結束のしようがない。
意識を集中しまだ塞いでいない傷口に気孔をあてる。上手く行けば血液を浄化出来るかもしれない。
――悟浄さえ助かれば
眼を開けると木の天井が見えた。デジャブを見ているようで、飛び起きて辺りを見回す。体中を震わせた女性はそこにはおらず、椅子に座った悟空が眠っていた。気孔を使い過ぎて倒れたらしい。サイドテーブルには洗面器が置かれ、膝の上には頭から落ちた冷たいタオルが乗っていた。ずっと看病してくれていたのだろう。
ベッドに身体を沈める。身体ではない、心が重い。逃げ出してしまいたい気分だが、きちんと整理しなくては隣の部屋へ行けないと思った。押し込めようとした記憶を掘り起こす。
もう手に負えない。限界だと感じていた。悟浄の隣に女性がいるのを見るのが、辛くて仕方が無い。
そう分かっていながら無視することに決めた。無視なんて出来るわけが無かったのだ。それが最悪の結果を生んだ。
あの時僕は呆然としていた。戦闘中であるのに意識は自分の中に向き、そこに映る悟浄の姿をぼんやりと眺めていた。現実なのか夢なのか分からない。二人の姿が消えた時、舞台のスポットライトが消えたような感覚だった。
一度深呼吸をする。全身に鈍い痛みが走った。だが、そんなの悟浄に比べれば大したことはない。悟空に毛布を掛けて隣の部屋へ向かった。
部屋の扉に鍵は掛かっていなかった。夜中の戦闘で壊れてしまったらしい。ノブは付いているだけで回すことも出来ない。
中に入ると、まず三蔵が眼に入った。椅子に座って寝ていた様だが、僕が来たことで起きたらしい。顔に掛かる前髪の隙間から鋭い眼が覗いている。その眼にはきっと情けない僕の姿が映っている。
ベッドに悟浄が寝ていた。布団が上下しているのを見て、悟浄が生きていると分かった。今更脚が震え出し、その場に崩れ落ちた。
「俺は寝る。良いな」
三蔵が返事を待たずに出て行く。扉は静かに閉められた。
悟浄の所に張って行った。ベッドの横まで行き、悟浄の顔を見ることも出来ず座っていた。三蔵が出て行く時に落とした物は、医者に処方された薬だった。解毒剤は入っていなかった。
頭に温もりを感じる。
弱々しく髪を撫でる手が心を締め付ける。
その手を握ってやっと立ち上がった。
「何考えてるんですか」
どうして一言目がこれなのか。何故悟浄を責めるのか。悟浄は薄らと笑みを浮かべている。包帯が巻かれた左腕を出し煙草を銜える。ジッポを取り出す前にその煙草を取り上げてまっ二つに折った。
僕を守って悟浄が傷つくことが、今までにもあった。一番酷かったのは心臓の真横に種を埋め込まれた時か。あの時も悟浄は僕を責めなかった。感謝しても謝罪しても「よかったな」なんて言って照れて、もうこれでおしまいと肩に腕を回し冗談を言った。そして次の日には夜の街へと消えていった 。悟浄の手は蝶のように僕の手をすりぬけて、他の女性の元へと飛んで行く。
まだ少し蒼白い顔をした悟浄の顔を一瞥し、ベッドに脚をかける。
何故責めることしか出来ないのか。責められるべきは僕なのに。悟浄が殴ってくれたら、怒鳴り散らしてくれたら、楽になれるだろうか。
悟浄の上に乗った。痛む身体に悟浄が顔を歪ませる。
今日を逃せば後がない。そう思った。二度と起こさないなんて口が裂けても言えない。もう楽になりたい。
女性に肩を貸し部屋に入って来た悟浄。大丈夫だと女性の頭に手を乗せた悟浄。女性に腕を絡められる悟浄。女性の顔を覗き込む悟浄。その全てが僕の前に壁を作り悟浄を隠していた。
頬を伝う涙を感じながら身体を倒す。もう限界なのだと視線で訴えながら。弱みに付け込むような卑怯さを罵ってくれて良い。僕を殴り飛ばしてくれれば良い。僕の肩を悟浄が掴んだ。抵抗かもしれない。瞬間、出来ることなら許して欲しいと思った愚かな自分にまた涙が流れた。
数々の嫉妬を踏みつけながら、唇を寄せた。
敵襲から一週間が過ぎた。普段ならすぐさま街を出て森の中で野宿をし次の街へ移動するが、四人中二人が負傷したため身動きがとれなかった。
僕の身体には圧迫痕が走っている。悟浄の錫月杖の鎖で出来た傷だ。それも、この一週間で薄くなっていた。
三蔵と悟空は僕が悟浄の看病をしている間、一度も部屋に入って来なかった。三蔵と顔を合わせても何も言わないし、悟空に聞いても三蔵の顔を見るだけだった。三蔵は謝ることすら許してはくれなかった。
悟浄は二三日の間身体が麻痺して、喋ることも起き上がることもままならなかった。ベッドに座り普通に話せるようになった時、悟浄の態度は前と少しも変わっていなかった。僕にとっての確かな記憶は、悟浄の朦朧とした意識に夢として映ったのかもしれない。それで良かったのだと思う。気持ちは凪いで、随分楽になっていた。
夕方、身体を慣らすために街に行こうと誘われた。買い出しをする物もいくつかあったし、宿から出られなかった身体に新鮮な空気を取り入れるのも良い。
宿を出ると微かに赤くなった西の空に日常に戻ったような安心感を覚えた。
「八戒 、ちょっち寄り道」
悟浄に促され横道に入る。路地裏に出ると夜の店が開店準備をし、露天商が閉店作業をしている所だった。小龍包などの食欲を誘う香りが、人工的な香水の匂いと喧嘩している。
悟浄が閉店準備を進める一人の女性に声を掛けた。商売が終わって気が緩んでいたのかナンパと勘違いしたのか一度悟浄を睨んだが、知った顔だと分かり綺麗な笑顔を浮かべた。ニット帽を脱いで分かった。その女性は、あの日悟浄に腕を絡めていた金髪の女性だった。
着ている服は胸も露なピッタリのTシャツにホットパンツ。目の前を通る男が二度見していく。
「大変だったらしいわね。敵襲にあったんでしょう。長髪の男が槍に刺さったとか騒いでたわよ」
「それ俺ね。ま、刺さってねえけど」
女性は大きなケースを取り出すと、白い手袋を嵌めて何かを取り出し黒い布の上に置いた。
「完璧な仕上がりよ。もう日が落ちたからちゃんと見えないでしょうけど。宝石は白熱灯の下で見るより太陽の光で見る方が好きなのよね」
そう言って悟浄の肩に手を掛ける。この人の癖みたいだ。女性の言葉で、あの日悟浄が物色し引き取りに来た物が宝石だと分かった。露店で売る宝石には偽物も多いと聞く。品物を覗き込もうとすると、女性が体を割り込まして遮った。
「それを選んだ理由は分かったけどねえ」
そう言って僕の眼を覗き込む。怪しげに光る瞳は僕の思考を見透かしているようで、曖昧な笑みを返して受け流した。
「ありがとな。この前の金額で平気か」
「悟浄…」
「前の街で一発当てたんだよ。大丈夫、領収書なんて出さねえから」
悟浄は女性に礼を言い、僕も礼を言って離れた。指輪を送る相手がいることは、ショックではなかった。もう終わったのだと、感慨に耽るくらいだ。
悟浄は宿とは反対の方向に歩き出した。
「どこに行くんですか」
振り向いた悟浄が僕の手を取る。結果、悟浄に密着して歩くことになった。悟浄の髪が夜風に巻き上げられ僕の頬を撫でる。
驚きと、悟浄の体温を感じる右半身に、鼓動が早くなる。けれど昔からこういう人だ。スキンシップが多くて、すぐに手が出る。一々反応していた自分が悪いのだと、おかしくなった。
反射的に熱くなった身体は、あっという間に昇った月を流れる夜風に冷まされた。もう大丈夫だ。
着いた先は川辺だった。街から西の位置。まだ来たことの無い場所。
「さっきの姉ちゃんに聞いたんだよ。良い場所があるってさ」
悟浄に促され隣に腰を下ろす。川面に月が映って揺れている。手が届きそうで届かない、弓張月。
「はいよ」
「え? 何ですか」
悟浄に手を取られる。訳が分からず悟浄の顔を見る。久し振りにしっかり見た、悟浄の顔。目は合っていない。けれど、真剣な眼差しの先に僕の手がある。そう思うと、簡単に僕の心は荒れ出した。手を引き、身体を離した。水月を見つめ唇を噛みしめる。
「ちゃんと見ろよ」
目の前に出された、左手。その、薬指。
光を反射して輝く緑色の石が嵌められた指輪があった。
「クロム・グリーン・スフェーンていうんだってさ」
悟浄の声を遠くで聞きながら、嵌められた指輪を見つめる。何のつもりだろう。深い緑の中に赤い模様が移動する。手を動かすと見え方が変わった。リングには細かく蔦のデザインが刻まれていた。今直ぐに指輪を外して悟浄に返すべきだ。分かっていても目が離せなかった。
逃げるように飛び回る赤色は、悟浄という蝶が舞っているようだった。
「スフェーン...。名前の由来は結晶の形がくさび形をしているから。ダイヤモンドを凌ぐ分散率で圧倒的な美しさを持ちながら、強度が低いために宝石としての実用性は低い。緑色にファイアの赤やオレンジが瞬く」
「何だ、知ってたのかよ」
「悲運の石…ですよね」
「あ?」
自らの結晶がくさび形。くさびであるはずなのに、多少の衝撃で自らが傷ついてしまう。宝石として身につけられないために認知度が低い。これだけ綺麗なのに。輝いているのに。
「誕生日だからやったわけじゃねえよ、それ」
悟浄が僕の顔を覗き込む。その瞳は揺れることなくまっすぐと僕の眼を見つめている。
悟浄が指輪を撫でた。僕の眼から逃げて行く赤のファイアは、スフェーンの緑に抱えられ包まれて、外へ出て行くことは決して出来ない。どんなに傷つきやすくとも。どんなに強引でも。この緑色の宝石は、赤を手放さない。
「じゃあ何のためですか」
声が震えた。
悟浄の瞳に僕が映っている。僕が楽になるには、どんな手を使ってでも悟浄を手に入れるしかないのだと思った。その考えはすっと心に落ちて、悟浄への想いを仕舞い込んだ箱に楔を打ち込む。
悟浄の手はまだ指輪に触れている。その手を取って指を絡ませる。悟浄はやはり笑っていた。僕の眼を覗くだけで、何も言わない。もう身体の傷は治っている。嫌なら押しのけるはずだ。躱すことなんて手慣れている。なら...
「悟浄。あなたが好きです」
もう後戻りは出来ない。
悟浄が知り得ない苦悩の数々を全身に乗せて押し倒す。下唇を噛めば、悟浄の腕が背中に回った。
「俺も」という囁く声が聞こえる。
これからも色々なことに嫉妬し続けるのだろう。それでも、目の前に悟浄がいて触れている。考える必要はなかった。あとは互いに想いのまま流されるだけだ。
もう一生手放さない。左手の薬指に感じる重み。
スフェーンの緑のように。