碧の眼の怪物
by かめやま禅怪物、英語で言えばMonster
このあまりにも激しい感情が、飼いならすことのできない怪物なのだと思ってしまえば、いくらか楽になるんだろうか…
「あ、おはようございます。」
「んー…はよ。」
生まれてから20年と少し。
生まれて初めての大恋愛をしてから5年程。
そしてその恋に破れてから2年が経ち
それはつまり悟浄と出会ってから1年が経過しようとしているということ。
…数字にしてしまえばなんてことはない。実に単調な人生。
大罪人・猪悟能が殺害した妖怪は千人に上り―――なんて、まるでどこかの企業の赤字を計上しているように感じる。
でも確かに、この手は血に塗れていて。
それは確かに唯一愛したヒトのため…だったのだけど。
「あ、そだ。起き抜けいきなしで悪いんだけど、今日夜遅くなっから。」
もう昼と呼んでも差し支えない時刻に起きだしてきた悟浄は、テーブルにつくなり煙草を取り出しながら、何でもないことのように切り出した。
「…起き抜けなのはあなただけなので大丈夫です。」
「ん。…いや、そうじゃなくて」
「夜ですね。分かりました。ちゃんと稼いできてくださいよ。」
「うーす。」
ここ一年程の「いつもの朝」のように、自然に振る舞えていただろうか。
悟浄に拾われて、生活スタイル正反対な二人が紆余曲折を経て、お互いに心地よい場所に収まって。
それでこれから先は、平和に日々が続いて、悟浄が結婚するとかいう運びになるまでは、なんとなくこのままでいいかなぁ、と思っていたのに。
「あっれ、煙草あと二本しかねぇや。」
悟浄の手指に挟まれたあの煙草にまで思わず激情を向けてしまう。
「夜までもつかな。」
嫉妬という名の。
「買い置きなら、そこの棚の中にありますけど。」
「マジでか。準備いいのな、お前。」
「まぁ、カートンで買った方がお買い得ですし。」
嘘だ。そんな理由は嘘だ。
本当は、煙草なんかの所為で悟浄が出かけてしまうのを防ぐためだ。
なのに
「おー、さすが八戒さんだこと。」
そうやって笑うのだ。その悪ぶった態度に似つかわしくない、純真な笑顔で。
その表情を見るたびに胸の奥に湧き起こる感情は、5年前とはなんだか異なっていて、でも名前を付けるなら同じ名前しか思いつかない。
こんな感情、知らない。というか認めない。
だって5年前は、こんな激情なんて伴わなかった。嫉妬なんて醜い感情。
鍋の汚れと一緒に洗い落として、排水溝に流れてしまえばいいのに。
こんなことを考えていたって関係なく、隣の悟浄は腹を空かせているだろうから、
日の光にあふれたキッチンにそぐわない濁った葛藤をしながら、それを悟浄に気取られないように平常を装って、彼の朝食を準備し始めた。
「トーストとスクランブルエッグでいいですか? 良ければウィンナーも茹でますけど。」
「ん〜じゃあ、お願い。」
「あ…コーヒー切らしてるんで、お茶でもいいですか?」
「おう。」
この何にも執着心のない男の、特別になれたのなら。
「そういやさ。」
煙草を天井に吹き上げると、その視線のまま続けた。
「なんでお茶は緑がほとんどなのに、『茶色』っつうのはあんな土みたいな色なんだろな。」
「…さぁ、分かりかねます。」
悟浄の目の前に置いた湯呑は、ゴト、と小さな音を立てた。
「さんきゅ。なんか茶飲みながら煙草吸うとか、三蔵みてぇだな。」
「そんなこと言って。緑茶は身体にいいんですよ。俗説では二日酔い予防にもなるとか。」
悟浄の口元に運ばれる濁った緑の液体。
そういえば初めて会ったとき、悟空が僕の眼を綺麗な色だと褒めてくれたっけ。
けどきっと今の僕の瞳は、あの緑茶のように濁っているに違いない。
…大量虐殺をした後より今の方が濁っているだなんて、人格を疑われる。
あ、いや。もう人間では無いけど。
一緒に食事をとって僕がミステリー小説を読み始めると、悟浄はしばらくごろごろしていたが、ふと時計を見ると突然起き上がり「やっべ、やっべ。」と呟きながら家を後にした。
もともと静かだったこの家が、家主がいなくなりさらにシンと静まり返ってしまった。
思わずため息がでる。
悟浄は夜遅いと言っていたから、大方帰りは朝になるだろう。
今日は早く夕ご飯をとって早く寝よう。余計なことを考えなくて済む。
そう決めてしまうと、一日は早く終わるためだけに滞りなく進んでいった。
買い物に行って、また読書の続きをして、気づいたら辺りは暗くなっていて。
夕ご飯も風呂も歯磨きも済ませて、眠る準備は万端だったけど、まだちょっと寝るには早い、20時30分。
そういえば、昼間なにか悟浄の質問に答えられなかったような…。
ああ、茶について。
本棚を探すと、ここで暮らし始めたころそろえた料理本の中に「お茶のすべて」なる本があった。なんのために買ったんだか。
電球が暗い自分の部屋から本を持って、ダイニングテーブルで本を読み始めた。
「なるほど。昔は茶色い番茶が主流で…」
呟いてみたところで、響くのは自分の声だけ。
悟浄は今どうしているだろうか。
いつもみたいに賭場で派手に遊んでいるのだろうか。
僕らの生活費が、三蔵からのバイト代と賭博で稼いだお金で賄われているのだから仕方のないことなのだけど。
賭け事をしている時の彼は一段と活き活きして、自信ありげな表情がまた…
なんて考えてしまっているのが、もう末期。
…それとも、もう十分に稼いで、どこかのお姉さんのところに時化込んでいたりして…。
あの長くて艶やかな髪を、女性の顔に垂らして乗り上げて。
「あ゛ー。―――ざまぁない。」
いくら冷静になろうとしても、脳は悟浄のことを考えては濁りだす。
「こんな時は読書ですよ。」
呟いて席を立った。「お茶のすべて」では、いささか役不足だ。
最近読んでない本で、こう、読んでるうちに疲れて寝れるような。
下の方の段の少々灼けた背表紙の本を漁っていると、唐突に目についたそれは―――
「オセロ―――シェイクスピア、か。」
数ページ読んで思い出した。
確か、この本にこんなようなフレーズがあった。
『嫉妬は緑の眼をした怪物である』
「Green eyed monster…でしたっけ。」
ばんっ。
突然玄関の方から物音がした。
時計を見れば0時ちょっと前。こんなに時間が経ってたのか、でもまだ悟浄が帰ってくるには早いけど…。
玄関に行ってみるとそこには、紅いものが倒れていた。
「…悟浄?」
「もうやだー、ごじょうったら。」
声の方に目をやると、玄関の外にこれまた派手な色彩の女性が立っていた。
「あら、ここ悟浄の家よね? 同居人?」
きつい香水の匂いを振りまきながら、その女性は僕の全身を眺めまわした。
「そうですが。」
「ごじょう今日昼間からトモダチの快気祝いとか言ってー、すっごいのんでてー、あしもとふらついてたから送ってきてあげたの。」
「そうですか。お手数おかけしました。」
不快だ。実に。
私が選ばれた特別だとでも言いたげなその女性を残して、僕は紅い物体を担いで一礼して扉を閉めた。
思ってたより重い、この人。細身だけど筋肉質だしな。
―――この生活がずっと続けばいいって?
けど、酒臭い。香水の甘ったるい香りも。
―――冗談じゃない、こんな生活してたら、気が狂ってしまう。
僕の肩に額をつけて寝こける悟浄。…よく見ると首筋にベットリとキスマーク。
『嫉妬は、緑の眼をした怪物である』
―――途端に、キタ。
「っ、うぉ!?」
「なんだ、起きちゃったんですか? ずっと寝ていても良かったのに。」
「いや、てか何事よ!」
悟浄が起きるのも無理もない。
なんせ、彼のベッドに投げ込んで差し上げたのだから。
そして、悟浄が狼狽えても仕方ない。
なぜなら、同居人に馬乗りで首を握られているのだから。
「彼女の…花喃のときですら、こんなこと思わなかった。」
「…は?」
「この手で、永遠に自分だけのものにしたいだなんて!」
「ぐっ…は、か…」
首に添えた手はそのままに、重心を前に傾けると、悟浄の表情が歪んだ。
「誰にも触れさせたくない、んです。」
僕は人間から人ならざる者に変貌を遂げたけど
「僕以外のものを、その瞳に映してほしくないっ」
それが妖怪だってどうして分かる?
それが緑の眼をした怪物でないなんて、どうして分かる?
「好き、なんです。あなたの事が。」
僕は嫉妬に狂った、Green eyed monsterそのものだ。
「はっ、か…い……。」
驚いたことに、悟浄は無抵抗だった。
抵抗の代わりに、彼は手を目いっぱい伸ばして、僕の肩に触れた。
「ごめ、ん…な。…っき…つかな、く…て。」
「えっ…?」
「ご…めん。ごめ…」
この男は…自分の置かれた状況を理解してるのだろうか?
仮に分からなくても、首が絞められていることは分かるはず。
なのにこの男は、この人は、悟浄は。
いつも他人の、心配ばかりして。
「馬鹿ですか、あなた…僕に首、絞められてるんですよ。」
悟浄は呼吸もできないくせに微笑むと、僕の背中を、つぅ、と1回擦った。
「わかっ…て、る…つ……の」
思わず、肘がくだけた。
バランスを崩して、倒れ込んだのは悟浄の横。
「はぁっ、すいませ…、すいませんっ!」
口をついて出たのは、謝罪の言葉。
今まで僕を覆っていた濁った激情が、嘘のように引いていくのが分かった。
代わりに押し寄せてくる、混乱と後悔。
…なにをしていたんだろう、僕は。
悟浄の首を絞めて、それから?
死んでしまっていたらどうするつもりだったんだろう?
まさか…一緒に?
駄目だ、顔向けできない。
僕は愛情と他の感情の区別さえつかない。
ベッドに顔を伏せていると、横で起き上がった気配がした。
「っはあ……おい、大丈夫か?」
命の危機にあったのは、自分だっていうのに。
きっとこんな人だから、僕は、彼を。
「……ふぅ。」
返事をしない僕に耐えかねたか、足音は部屋を出ていった。
悟浄の部屋には、僕の嗚咽だけが響いていた。
悟浄は、この家を出て行ってしまうかもしれない。
もう、終わりだ。
「おーい、八戒さんよ。ちょっとこっちきてくんねぇ?」
どれくらいたっただろう。声の元を見ると、悟浄が廊下から顔だけを出していた。
顔…向けてしまった。
「はーっかい。ちょい教えて。」
「…はい。」
こんなことをした動機を聞かれるだろうか。
思いながら悟浄に続いてキッチンに入ると、彼は薬缶を指さした。
「湯も沸かしてるし、急須も出した。でも、茶葉の場所がわかんなくて、さ。」
「…は?」
「いやだから、茶だよ茶。緑茶。」
「…なんでまた。」
「いやだって、アルファ波がでてリラックスがどうのこうので、血圧がひくくなるとかなんとか…」
言いよどむ悟浄の視界の先には、先ほど僕が置きっぱなしにしていた「お茶のすべて」。
「まずは二人とも落ち着いて、それから話し合うかなっつう」
なんと悠長な。だって僕は、僕は…
「僕は! 先ほど、あなたを殺そうとしたんですよ?」
「…美人に殺されそうになったのは2回目だわ。」
だったら余計トラウマな筈だ。なのに。
「普通なら追い出すどころか、三蔵に言えば執行猶予がなくなって刑が施行され」
「やめろ。」
「え…?」
茶漉しをシンクの中に投げ捨てて、金属同士の音がした。
「俺が拾った命なんだよ。一度失ったかと思って、肝が冷える思いして」
目が離せない。
紅い呪縛が一歩一歩近づいてくる。
「もう2度とあんな思いはしない。」
再び、肩にふれた手。
「恋愛とか、そんなんよくわかんねぇよ? でも、俺の事だけ考えてくれてたらって、思ってた。今まで、ずっと。」
最初は何が起こったのか分からなかった。
僕の背中で交差する悟浄の両腕。
「そんなんじゃ、ダメ?」
抱きしめられていた。
僕の罪を奪おうとするが如く、力強く、熱く。
「好きよ? 八戒のこと。」
緑の眼の怪物は、緑茶がはいるのを待つ、ただの男になった。