その夜をこえて
by 千代崎「悟浄、おはよう」
ひらけたばかりの視界の端で、黒髪がさらりと揺れる。
「……ございます」
ぽそりと言葉が継がれて漸く、柔らかな声が自分にかけられたものだと気づいた。
「ていうかお早くないですね。もう昼前ですよ」
ちらと横を見やればシーツの上には組まれた腕がある。そうやってこちらを覗き込むような姿勢で、声の主はベッドの脇に座り込んでいたらしい。俺が起きるのをずっと傍で待ってましたと言わんばかりに。視線を軽く上にやれば、幾許もなく目と目が合った。
「……ん」
左眼だけにほんの一瞬、違う色の光がちらつく。つい昨夜に薄闇の中で垣間見た、「妖怪」の眼。猫みたいに鋭く細まった瞳孔と燻んだ琥珀の虹彩が、不思議なほど目の奥に焼きついて離れない。
瞬きして、丸っこい両の黒目をじっと見比べる。――そういえば、右眼のほうには何も変化が無かった。意識して見たこともなかったが、目の前のそれは神経こそ繋がっていれど生まれつきの眼とは違う。
「……やっぱり変ですか?」
視線に気づいたらしい八戒が、右眼を指差して苦笑する。
「や、逆。全然わかんねーなって」
「殆ど見えてはいないんですけどね」
こうやって癖みたいに目を細めて笑うのも、義眼を凝視されたくないからか。それともただのコイツの性分か。
「よく見れば分かると思いますよ。眼球の動きとか、瞳孔の収縮とか」
言われるままに中心辺りを見比べてみると、なるほど確かに違う。暗い所に居るほど拡がるんだったか。陽の光を遮った薄暗い部屋の中では、左眼の瞳孔が心持ち大きく見えた。義眼は多分、明るい場所で自然に見えるように造られているんだろうから。
「……ふぅん」
この色も、形も、元々八戒が持っていたものじゃない。人の手でそれらしく造られたものだということを、今更はっきり理解した。
「不便じゃね?」
「まぁ、多少は」
慣れましたけど、とまた緩く細められる眼を、少し頭を退いて見比べる。やっぱり遠目には全然わからない。普段気にかからないわけだ。
「ところで悟浄」
「あ?」
両眼がずいと迫ってくる。――というか身体そのものが近い。いつの間にすっかりベッドに乗り上げられたのか。
「……そんな熱烈に見つめられると流石に照れるんですけど、自覚あります?」
「ッ!」
我に返って目を逸らす。――眼ばっかり、しかも間違い探しみたいに注視してるもんだから気づきもしなかった。
「……早く言えっつーの……」
「珍しいなぁと思って」
首に腕を回され、嬉しそうに上気した頬が更に寄せられる。やけに活き活きした眼がまっすぐ向けられる。すかさず躱して絡みつく脚に蹴りを入れると、不機嫌そうな溜め息が洩れた。
「……ほら。こっちがするとすぐ逃げちゃうんですから」
「、」
ぐい、と両手の親指で下瞼を押し下げられ、いきなり唇を奪われた。
二度、三度、と角度を変えて押しつけられる間、閉じようのない視界は強制的にドアップの目に埋め尽くされる。すぐに離れると八戒はまた、嫌味たらしく爽やかに笑んで尋ねた。
「これだけ近ければ分かります?」
「分かるか!」
近すぎて比べようもない。そもそも目が乾いてそれどころじゃない。
瞼を押さえて呻く間にも、油断も隙もなく八戒の手は動く。タンクトップの裾をすりぬけた勢いのまま、腹のあたりを撫でさする。それだけで言わんとすること、もとい、やらんとすることはほぼ間違いなく分かる訳で。
「……なんで今」
「お昼まで半端に時間もありますから」
「イヤ疲れてんだけど」
「僕のほうはまだしも、貴方は自業自得で縛られて殴られて転がってただけじゃないですか」
「ッだから、」
助けてくれなんて言ってねえ。抗議しかけたところで、責めるみたいに縄の痕を辿られて言葉に詰まった。そんな俺を嘲ってか八戒はますます頬を寄せて、耳元へ止めを刺しにかかる。
「……それに、元気でしょう?」
「……」
何を言いたいんだか分かるから言い返せない。
厄介事から逃れて一息ついた後は、全身の倦怠感に反してアレが昂ぶることがある。仕組みなんざ知ったこっちゃないが、本能だか何だかのせいだ、多分。しかも性質の悪いことに、指摘されると余計気になるっていうか最早そっちにしか意識が行かなくなって――どーでもいいか、もう。
ひとつ溜息を吐いて身体の力を抜けば、察したように八戒が肩を押さえ込んで跨った。そのまま、と請う声に大人しく唇を少し開く。瞬きもできなくされるよりはマシだ。
間近で見ると、陰になって色は暗く見えた。その上にうっすらと、睫毛の影も落ちている。唇が合わさったところで、数度の瞬き。白目に薄く走る血管は、義眼のほうがわざとらしく浮き上がって見える。
不意にぬるりと這入りこんだ舌に反射で目を瞑った。応えて向こう側に息を逃がしながら、徐に瞼を開く。殆ど同時に開かれた目と、ぴったり視線がかち合った。そこで漸く気づく。鮮やかな青緑の中に、薄く薄く――紅が映り込んでいた。
ゆるりと舌がほどかれて、外へと引き抜かれる。温い吐息がぶつかり合う距離のまま、八戒が独り言のように言った。
「……今更、不便とは感じませんけど。そうですね、こうやって間近で貴方の両眼をまっすぐ見られないのが」
俺の左頬を撫でながら、眉尻を下げてどこか気弱に笑う。
「ほんのちょっと、惜しいです」
生きてはいない筈の瞳が一瞬、哀しげに揺れて見えた。
「……でもまあ、後悔はしないことにしましたから」
眼球を抉り出したことを。そこまで自分を追いつめた罪を。結果的に手に入れた力を、それで俺を助けたことを。今までの全部を?
「八戒」
「はい」
何が言いたくて名前を呼んだのか、自分でも分からなかった。取り繕うように口をついた言葉もまた、妙に途切れがちだ。
「違い、さ。他にも分かった」
「へぇ、どういう?」
「なんつーの。反射? 明るさっつーか光り方がさ、違ェなって」
透明の膜を張る青緑に、紅をかぶせて生まれる濃灰。片方では深く暗く影が落ち、もう片方では濡れた眼の中に留まる光が闇を透かす。
別に、どっちが綺麗とか正しいとかって訳でもなくて。生まれ持った眼の上にも造られた眼の上にも、そこでしか生まれない色とか光があるのかもしれなくて。――その両方を持つなんてのは、そうそうないことだと思う。
そんなことを思いつくままに呟いてみたら、八戒は暫し両目をぱちくりさせた。そのうちに口の端が綻んで、「そうですか」なんて小さな声が隙間から零れ落ちた。
少しだけ、その両眼が潤んだように見えたのは気のせいか。
「……そーいやさ、端っからヤる気で俺が起きんの待ち構えてたワケ?」
そんな身も蓋もない、と咎める調子で言ってから八戒は、深く溜息を吐いた。俺というより自分自身に呆れ果てている、そんな具合に。
「……堪らないなとか、思っちゃったんでしょうねぇ、多分」
「何がよ」
「自業自得で縛られて殴られて転がってた貴方が」
言い切ると同時に、長い指がまた首筋をとらえる。
その夜をこえた八戒の眼は、今までよりずっと吹っ切れてまっすぐで、良くも悪くも遠慮がなくて。広告写真の海みたいな色にそぐわない、熱と獰猛さを持っていて。
「……ッは、サイテー」
ただ、その真ん中に紅を混ぜながら。泳ぎ方も知らない子供みたいに、どぷりと身体を沈めてゆく。