いつでもそこにある

by アオノミズホ


 悟浄に運転を代わってもらってどれぐらいが経つだろう。10分、いや15分といったところか。
 見慣れない助手席からの眺めに違和感を覚えながら、ずれた毛布を直した。砂漠の夜は冷える。知識としては知っていたが、ここまで差があるとは思わなかった。昼間の日差しの強さが嘘のような空気の冷たさ。それでもこの時期にしては暖かい方だと、出発前におさげの女の子が教えてくれた。
 乾ききった、砂の混じった風が肌をざらつかせる。シャワーを浴びたくなるが、ここでは贅沢な望みになってしまう。
 悟浄はただ前を見てハンドルを握っている。時折コンパスを見て方向を確認したり、煙草をくわえ直すだけのその横顔は、年齢よりも落ち着いて見えた。昼間悟空と騒々しく喧嘩したり、三蔵――今は不在のリーダー――をからかう様とは別人のようだ。
(賑やかなところもこの人の一面でしょうけれど、こっちの方が素のような気がしますね)
 なぜなら自分と二人きりのときはあまり口数が多くないから。と言ったら厚かましいと笑われてしまうだろうか? それでも意見を変える気はないのだけれど。
「……起きてるか?」
 運転を交代してから初めて悟浄が口を開いた。
「落ち着かないんですよね、助手席は」
「2時間おきに交代っつったのお前じゃねーの」
「まだ目的地までは結構かかりそうですからね。でも運転してる貴方を見てるのは楽しいから、これはこれでいいですよ」
「寝てろっつーのに……っておい、ちょっと揺れるから気ィつけろ」
 返事をするよりも早く、大きな振動が来た。同時に何か固い物を踏み越えたような、鈍く耳障りな音がした。
「でっかい石みてえのがあって。避けられりゃ良かったんだけどよ、直前まで気付かなかったわ」
「大丈夫ですよ。ジープのライトしか光源がないんですから無理もありません」 
 月は明るいが、荒野の障害物を照らしてくれる程ではない。
「ジープ、驚かせてすみませんね」
 声をかけながら車体を撫でると、キュー、と元気そうな返事が返ってきた。良かった。まだまだ水場までは頑張ってもらわなくてはならないが、この分なら大丈夫そうだ。到着したら干し肉でもあげてねぎらってあげなくては。
「八戒の運転じゃねーから嫌かもしんねーけど、ちょっとばかし我慢してくれよ。ご主人様も疲れちまうからな」
「……キュー……」
「すっげー渋々って感じだなおい」
「まあまあ、ここでジープにヘソ曲げられたら僕らが困っちゃいますよ」
「そりゃそうだけどよー、扱いに差があり過ぎんだっつーの」
 悟浄のぼやきをなだめながら、僕は座席のシートを後ろにずらした。背もたれに体重を預け、首を伸ばしながら夜空を仰ぐと、月を囲うように星が輝いていた。
 悟浄の運転は心地良い。大雑把なように見えて案外繊細でスピードを出し過ぎることもない。やむを得ず急ブレーキをかけたり、先程のように大きく揺れる場合は必ず一声かけてくれる。
「運転に性格が出るって言いますけど、貴方の場合は結構当たってますよね」
「ハンドルさばきが華麗なイイ男っつーことだろ?」
「あはは、そういう事にしておいてあげます」
 冗談めかして肯定したが、本当に安心して乗っていられるのだ。気を緩めていられる。今は気を使わないでいいと思わせてくれる。悟空が何者かに襲われて三蔵がいなくなって――話すべきことは色々とあるはずなのに、ただこの心地良い空気を味わっていたくなってしまう。
(困ったなあ)
 この人のこういう空気はずるい。多分どうやっても敵わない。ちょっと腹が立つぐらいだ。
 すると悟浄が茶化すように言ってきた。
「お前もモロ性格出るよなー」
「そうですか?」
「普段はまあ丁寧っちゃ丁寧だけどよ、細かいところが雑っつーか。いきなりスピード上げた後に“トバすんで気をつけて下さいね”とか、トバす前に言わなきゃ意味ねえだろって」
「僕だって丁寧にアナウンスできるならしたいですけどね、毎日毎日何時間も運転してればそんなに細かいことまで気が回らなくなるんですよ。仕方ないでしょう」
「旅に出る前の運転だって似たようなもんだっただろうが」
「心外ですね。じゃあジープに聞いてみましょうか。ねえジープ、そんなに雑でしたか?」
「そりゃ卑怯だろー。ご主人様の肩持つに決まってんじゃねえか」
 悟浄の抗議は特に気にせず、さっきと同じように車体を撫でた。
 しかし、1分ほど待っても反応はなかった。
「……どうして何も言わないんです?」
「お前声が怖い。おーいジープ、俺はお前の正直さに感動したけど、適当にゴマすっておいた方がいいぜー」
 悟浄のよく分からないアドバイスは放っておいて、僕は毅然と宣言した。
「この件は保留にしましょう」
 お前ホンっと負けず嫌いよね、と呆れた風に笑われた。

(旅に出る前か)
 二人であの家に住んでいた頃。三蔵の依頼を受け、ジープに乗って厄介事を解決しに行って、報酬の安さに文句を言っていた頃。そう前ではないはずなのに、随分懐かしく思えるから不思議だ。
「悟空は運転したら上手そうですよね」
「あの猿にブレーキとアクセルの違いが覚えられっかぁ? 無理だろ100パー。発進しようとしてバックするに決まってら」
「お箸を持つ方がアクセル、お茶碗を持つ方がブレーキと教えればきっと大丈夫ですよ。でも三蔵は……」
「……」
 今はいないリーダーの名前を出した途端、悟浄の眉間にしわが寄る。
 悟空を放って行った三蔵を咎める気持ちは分からなくはない。でも僕はあまり賛同する気にはなれなかった。突然、何の前触れもなく大切な物が失われそうになったとき、人は不可解で理不尽な行動を取る。その事を僕はよく知っていたから。
 悟浄を横目で見ると、空き缶に煙草の吸い殻を捨てようとしていた。
「悟浄」
 言いながら僕が携帯灰皿を差し出すと、悟浄は面倒くさそうに受け取った。
 その姿を見ながら、つい考えてしまう。あれから何度も考えた問いを。
 ――もしも貴方が目の前で殺されそうになったら、僕はどうするんでしょうね。
 口に出せば、縁起でもない事をと怒られてしまうだろうか。
 ふとあの日の事が頭に浮かんだ。貴方がいなくなった日の事が。
「貴方がカミサマを追って、いなくなった事があったでしょう」
 相槌はなかったが、おそらくは話を聞いていない訳でも、この話を嫌がっている訳でもない。特に根拠はなかったがそう判断して続けた。
「それはそれは後悔したんですよ。行かせなければ良かったって。首に縄つけてでも引き止めておけば良かったって」
「……お前が言うと本気でやりそうだからアレな」
「実際にやるなら縄じゃなくてもっと丈夫な素材にしますよ。何があっても切れないような」
 そんな物があったらどんなに良いか。冗談の体で言っているが、半分以上は本気だ。
「だから再会したときは諸々の後悔と苛立ちをこめて蹴ったんですが」
「どーりでお前の蹴りが一番痛かったわけだ」
「アジトに着く前に貴方の偽物が出てきたんで、本物かと思ってボコボコにしたんですけど、今思えばやっぱり蹴り心地がイマイチでしたね。本物の方が活きがいいっていうか」
「俺褒められてんの? つか偽物が気の毒になってきたわ」
 苦笑する悟浄に、僕は精一杯大げさに言った。
「気の毒なのは僕ですよ。買い出しの荷物持ちがいなくて困りましたし、悟空の遊び相手や三蔵のストレス発散相手がいない分の世話までしなくちゃならなくて」
「あーその話10回ぐらい聞いたからもう勘弁して」
「いいえ、あと30回は言わないと気が済みません」
 50回と言いたいところを減らしてあげたのに、悟浄は心底うんざりした顔をした。やっぱり50回は言おう。
 こうしてふざけた笑い話にしていても、きっとお互いに分かっている。本当に困ったことは、そんな事じゃなかったと。
 僕はあまり重くならないように気をつけながら、ひとりごとのように言った。
「でも本当に……やっぱり嫌だなあって思ったんですよ。貴方がいないのは」
 いつからこうなってしまったのかは分からない。毎日一緒に居過ぎたのが良くなかったのかもしれない。それでも手放す気はこれっぽっちも起こらないから始末に悪い。いてもらわないと困るのだ。
 悟浄は僕の頭に左手をぽんと置いて、聞こえるか聞こえないかの声でワリィ、と呟いた。
「後で運転交代すんだから、そろそろ寝ろよ」
 照れ隠しのつもりか、少々ぶっきらぼうな口調になっている。
 僕はくすりと笑いながら、悟浄の手を取ってゆっくりと観察した。見慣れた長い指。表面がざらついて乾燥しているのは、ここの乾いた風のせいだろう。ハンドクリームでもあればいいのに。悟浄はベタベタするからと嫌がるだろうが、それを無視して塗ってあげるのはきっと楽しい。
「代わりと言ってはなんですが」
「ん?」 
 返事を聞くとほぼ同時に、指先に軽くキスをした。



【END】