flavor
by 秋陽日課と化した家事をあらかた終え、茶を入れてリビングテーブルの席に腰かけ一息つく。何気なく、壁掛け時計へ目をやれば10時半をすこしすぎたところだった。
昨夜は賭場での稼ぎが良かったらしく上機嫌で朝帰りしてきた悟浄を叩き起こすにも、昼食の用意をするにもまだ時間が早い。あいにく今日は家庭教師のアルバイトの予定も入っていないので出かける支度をする必要もなく、贅沢にも持て余してしまったこの時間をどう過ごそうか八戒は思案する。先日買ったミステリー小説は結末の予想がついてしまったので読む気がしない。何もしないっでぼぉーっと過ごすのもたまにはいいかと思い始めたとき、そういえばと、最近、街で見かけた真新しい喫茶店を思い出す。
店の前を通りかかったときコーヒーのとても良い香りがし、気になって窓から中の様子をうかがった。感じのいい初老の男性がカウンターの内側でグラスを磨いており、バーテンダーの様な服装からしておそらくはこの店のマスターなのだろう、レトロな雰囲気の店内とあいまって時間の流れがガラス一枚隔てたこちらとは違うように感じた。ふと、店内の男性と視線が合った。怪しむ様子もなく穏やかな表情で会釈されたので八戒も頭を下げその日は、バイト先に行く途中だったのでそのまま立ち去った。
ちょっと行ってみたいな。悟浄には申し訳ないが起きてもらいあの喫茶店に行こう。そこで軽く昼食をとって、ついでに街で日用品や食料品の買い足しもしよう。
頭の中で大まかなプランを立てると湯呑を台所に置き悟浄の部屋へとむかう。
―――コンコンコン
「悟浄、おはようございます」
この程度で起きてこないのは分かっているが一応ノックし声をかけてから中に入る。案の定、静かに身体が上下し規則的な寝息を立てていた。脱ぎっぱなしの服や乱雑にまとめられた雑誌の山、灰皿代わりにされたサイドボードの空き缶が目に入り、また小言を言わなければならないのかと思うと溜息が出る。足元に注意しながら音を立てないようにそっとベッドまで歩み寄り寝顔をのぞき込む。顔にかかる深紅の長い髪を退かすと普段浮かべている人を食ったような笑みではなく、口を半開きにして安心しきった顔があらわれた。その間抜けな表情に毒気を抜かれた。
「そんな無防備でいると襲っちゃいますよ?」
「んぅ…う゛ー」
悟浄は眉間にしわ寄せてうなりもぞもぞと布団の中に潜ってしまった。その反応に八戒はクスッと小さく笑った。しかし、こうなるとこれまでの経験上しばらくの間はテコでも起きない。しかたなしにベッドを背もたれにしてその場に座ると、床に転がるタバコとライターが目に入り、拾いあげ気まぐれに箱から一本取りだして口に含んだ。不慣れな手つきで先端に火をつけ一度ふかしてから煙を肺に入れれば軽くむせた。口内にタバコ独特の風味が残り、吐き出した煙からはほんの少し違和感を覚えたものの嗅ぎ慣れた香りがしていた。
微かな寝息しか聞こえない空間が心地いい。正確に言えば、悟浄の側だから心地いいのだろう。いつ頃からなんて忘れてしまったが、彼が自分の精神安定剤になっている自覚は親友という立ち位置になる以前からあった。そして、友人以上の感情を抱いてしまっている自分にはこの関係が時折、焦燥感を与えている自覚もある。
「いっそ、あなたを好きですと言ってしまおうか」
怖くて言えない言葉を口走ってから空しくなり苦笑いを浮かべる。彼はどんな顔をするだろうか。
―――気持ち悪いと拒絶する?
―――それとも何の冗談だと言って笑い飛ばす?
どちらにしても優しい彼を困らせるに違いない。
グルグルと頭の中を回る思考を振り払うように、もう一度深く吸った。今度はむせずに吐き出すと白い煙は天井に向かって消えた。自分の気持ちもこんな風に煙にまけたらいいのにと思っていると背後から布の擦れる音がした。
「…八戒が吸ってたのか、珍しい」
寝起きの掠れた声が横から聞こえ一瞬驚き振り向くと、布団から顔を出した悟浄がまだ眠たそうな眼を擦っていた。
「お、おはようございます。一本もらいました」
悟浄はベッドから体を起こすと大きな欠伸をして半分まで短くなった煙草を八戒の手から取り、文句を言うよりも先にそのまま美味そうに吸う。ふわりと香った紫煙からは自分が吸っていた時の違和感が消えていた。
「悟浄じゃないとその匂いはしないんですね」
「あぁ?」
ぼそりと呟いた言葉に悟浄は煙草をくわえたまま意味が分からないといった感じで聞き返す。八戒は誤魔化すように微笑みながら首をふった。
「いえ、なんでもないです。それより今日は外でお昼にしませんか? 良さそうなお店、見つけたんで」
普段通りの様相で八戒は今日の予定を告げると、腰を上げサイドボードの吸い殻だらけの缶を持ちドアへ歩き出した。悟浄は何か言いたげに見つめるが、了承するようにヒラヒラと手を振る。その表情に気づかない八戒ではないが「じゃ後で」と言ってそそくさと部屋を出る。
「聞こえちゃったかな?」
ドアを背にバツの悪い顔をした。勘のいい人だからいつかは悟られるだろう。けれども、今はまだ、服に残る香りの主に気づかないでほしい。そう思わずにはいられなかった。