殺し文句
by もちみ「う…ん…?」
ぱち、と目が覚めた。自室の窓からはオレンジがかった光が射しこんでおり、夕暮れ時であることがわかる。と、そこで違和感。いつもならば口うるさい同居人が昼ごろに叩き起こしに来るのだが、今日はそれがなかった。よく寝た証拠に昨夜飲んだ酒は完全に抜けている。
昨夜も賭場で生活費を稼いできた悟浄が帰宅したのは朝方で、八戒が起きるほんの数時間前だ。ほろ酔いのまま自分の部屋のベッドに倒れ込んで太陽の匂いのする清潔なシーツに顔を埋めて眠りについたことを覚えている。
寝過ぎたせいで怠い体を無理やり起こし、リビングに出て同居人の名を呼ぶ。しかし、返事はなく、窓の外に目をやっても姿は見えなかった。もしかして自分が気持ちよく寝ている間に何かがあり、出て行ってしまったのかとも考えたが、テーブルの上でジープが寝ているところを見るとその可能性はなさそうだ。ラップのかけられた昼食がそれを物語っている。
とりあえず椅子に腰かけて家の中を見渡した。オレンジ色の光は徐々に赤みを増し、部屋全体を同じ色に染めていく。時計の針が時を刻む音とジープの寝息だけがこだまする空間がそこにはあった。
「(なーんか…)」
この、胸が苦しくなるような感覚は何だったか。切なさで息が詰まりそうになる。八戒はただ出掛けているだけで、すぐに帰ってくるとわかっているのに苦しい。いや、わかっているからこそ尚更苦しいのだろう。
そういえば昔にも、こんな気持ちを感じたことがあった。家族を支えるために一人で働くあの人が、赤い夕陽を背負って帰って来るのを待っていた時だ。寒くなり始めた冬の初めに少しでも体温を逃がすまいと沈んでいく夕陽を眺めながら一人で膝を抱えていたあの時。いざあの人が帰ってくれば可愛くない憎まれ口しか出てこなくて、守ってもらっているのに素直に感謝したことなんてないのだけれど、確かにあの時もこんな気持ちだった。
乱暴に悟浄の頭をかき混ぜる無骨な掌の感触を思い出したところでハッとする。ジープは夢の中で、今この家には悟浄一人。恥ずかしがる必要などなかったが、柄にもなく郷愁に駆られたのを誤魔化すように煙草を取り出した。静かな室内ではライターの石を擦る音ですらやけに耳につく。
「ピィー」
「ん?」
さっきまで気持ち良さげに寝息を立てていたジープが徐にその長い首を持ち上げ、玄関の方へ顔を向けた。どうやら主が帰ってきたようだ。軽快な足音と共に紙袋の擦れる音も聞こえる。
主を出迎えようと羽を広げる健気なペットに倣い、立ち上がってその後に続いた。
「ただいまー。あれ? 貴方までお出迎えですか、悟浄。」
わざわざドアの前に立っていた悟浄に八戒は少し驚いたようだったが、特に気にせず出迎えてくれたジープを撫でる。飼い主にひと撫でされると満足したのか、彼は再び自分の寝床に戻っていった。
その姿を追っていた翡翠が今度は悟浄を捉える。
「今起きたって感じですね。よく眠れたでしょう?」
僕が留守にしたおかげで、とおどけて言う同居人に、お前のせいでこっちは憂鬱な子ども時代に思いを馳せてしまったんだぞ、と見当違いな怒りを心の中でぶつけた。しかし、そんな怒りは欠片も本人には伝わっておらず、彼は自分が帰宅してから一言も発してない悟浄を訝しんで声を掛ける。
「どうかしたんですか?」
「んー…」
なんでもないと言うように曖昧な返事をし、買ってきた物を整理しているその背中に抱きついた。着痩せする体は意外としっかりとしていて、顔に似合わず鍛えられている筋肉を後ろからなぞるように撫で回す。
しばらく悟浄の好きにさせていた八戒だったが、黙っていたかと思えば甘えるように擦り寄ってくるという、いつにない様子に首を捻った。
「もしかして寂しかった、とか?」
「…違ぇよ。」
八戒が口にした“寂しい”という単語は、悟浄が感じた気持ちに思いの外しっくりきた。が、認めるのは癪だった。
顔を上げて少し距離をとると、わざとらしく期待外れだという顔をしてこちらを見る。
「それは残念。」
どこが。
ちょうど沈む夕陽が窓の高さと重なった時、先ほどまではオレンジ色だった部屋が真っ赤に染まる。思わず悟浄と八戒の視線がそちらに惹きつけられた。過去に散々と言っていいほど囚われたその色も、今ではただ懐かしさを誘うだけだ。
少しの間、二人は窓の外を眺めていた。
「ああ、悟浄」
目を細めながら差し込む光を見つめていた八戒が不意に悟浄の方へ向き直る。夕陽を背負った彼の顔は逆光で見えにくいが、おそらくいつものように穏やかな笑みを浮かべているのだろう。そして、彼から見た今の自分はこの部屋と同じように全てが赤く染まっているに違いない。
「…綺麗な赤ですね」
そのせいで赤面してると思われていたとしたら、それは甚だ迷惑な話だ。