夜のくるまえに
by 千代崎「あっっぢぃ」
呻くようなその声に、手元の活字へ落ちていた視線を後ろへ向ける。ついさっき起き出してシャワーを浴びてきたばかりの悟浄が、ボクサーパンツ一枚でうろついていた。タオルを宛がった髪の先から何秒かに一滴、雫が滴り落ちてくる。
「コレ冷房ついてんのかよ? 何度?」
「ちゃんと髪乾かして下さい。29度です」
「暑ッ苦しくてドライヤーも使えねーっての。下げんぞ」
「健康にも環境にも家計にもよろしくありませんから」
章末まで読み進めた本を閉じ、テーブルの上のリモコンをさっと奪い取る。そのまま有無を言わさずポケットに入れてしまうと、あからさま過ぎるぐらい悟浄の眉間に皺が寄った。
「……あー、ケチくせーの。ちっとの間ぐれぇいいだろ」
「とか言って、ずっとリモコン放さない気でしょう。ダメです」
体感温度に差があると言ったって、耐えられない程の暑さである筈はないんだから。少しは冷えに弱い此方のことも考えてほしい。
ちっ、と態とらしい舌打ちをかまされたかと思うと、不機嫌な足音に続いて冷蔵庫の扉を乱暴に開閉する音がした。全く、下らないことに限ってすぐ感情的になるんだから。
身体の動きが大仰になるほど長い髪は振り乱れ、床に絶えず水滴を落としてゆく。
そういえば、随分長くなったなあ。すぐ伸びるなんて嘯いていたのは、あながち冗談でもなかったらしい。そのうえ今は水を吸って重力に流され、中心の分け目もへたっている。まっすぐ立ったら肩甲骨を覆うぐらいじゃないだろうか。正直この時期にあの色あの量あの長さは何よりまず鬱陶しく感じてしまうけれど。
「……というか、暑がる割に切らないんですね」
ペットボトルのキャップを捻りつつ戻ってきた悟浄が「あぁ?」とかなんとか言いながら目を見開いた。指し示すように、手の届く位置に垂れてきた毛先を摘み上げる。「あぁ」とかなんとか先程と大差のない返事をして、悟浄は一口だけ水を飲んだ。
「前にさ、お前がちょっと弄ったろ。ビミョーに伸びかけてるとき」
「はあ」
生返事をしながら記憶を辿る。悟浄がセルフでばっさりやってしまった後、不揃いに伸びてくる髪を見かねて二度ほど揃えさせて戴いたっけ。
「なーんか拘ってたっぽいし。またテキトーに切ったりしたら怒んのかなーって」
ボトルを置いた悟浄が毛先を弄りつつ、ちらりと僕を見やった。ついさっき僕を睨みつけたその眼は、一転してなんだかあどけない。まるで親の機嫌を伺う子供のように。
「別に、怒りはしませんけど」
そう言いつつ、悟浄が髪を引っ掴んで億劫そうに鋏を入れてゆく様子を思い浮かべる。ああ駄目だ、絶対どこかしらおかしくなる。この人がガサツだからというより、後ろの髪なんて自分で上手く揃えられるものじゃないし。まあ普通は人に頼むだろう。床屋のおじさんだか馴染みのお姉さんだか――いや、これも却下。余計に駄目だ。論外だ。
「……確かに、ちょっと嫌です」
本当は、ちょっとどころじゃなく嫌だ。見知らぬ誰かにべたべたと触れられて、あまつさえ手を加えられるなんて。なるほど僕は拘っている。彼の髪型そのものというよりは、その維持を委ねられているという優越感とか征服感といったものに。
大体なんなんですかこの髪は。なんで放っときっぱなしの割にサラッサラなんですか。半妖ゆえの体質だったりするんですか。無頓着に見えて知らない間にお手入れとかしてるんですか凄く面白そうですその光景。それともやっぱり馴染みのお姉さんの仕業なんですか。だとしたら一度話し合う必要が――
「はっかーい」
気の抜けた声で我に返る。ずっと毛先を摘んだまま、検分するように見つめていたらしい。
慌てて指を離すと同時に、喉の奥で低く笑う声。どきりとした瞬間、悟浄が俯き、後ろに流れていた髪がぱさりと此方へ落ちてきた。そこに背後の窓、カーテンの隙間から、西に傾きかけた陽光が強く差し込む。
僕じゃなくたって息を呑むだろう。水の膜を纏ってしなだれる深紅の毛束が、光を反射させて細かく煌めくその光景に。
節くれだった長い指が、髪にするりと差し込まれる。見せつけるような仕種でそれを後ろへ掻き上げながら、悟浄は片眉を上げて挑発的に笑った。
「シたい?」
「、」
どうにも厄介なのはこれだ。無意識に髪を弄ぶのは僕が彼を求めているサインだと、悟浄自身が感覚的に分かっていること。
「じゃガンッガンに涼しくしてくんないと悟浄もたなーい」
返事も聞かずに、リモコンを入れたポケットへと悟浄が手を伸ばす。
やっぱりそういう魂胆でしたか。まあ、確かに利害は一致したので構わないんですけど――
「ストップ」
咄嗟にそう制すると、面白いぐらい「ぴたっ」と悟浄の手が止まった。その隙に椅子から立ち上がり、後ろを向いて外に通じる窓へ向かう。
「薄暗い部屋に籠ってるのもなんでしょう? いい天気ですし」
「……青姦?」
「違います」
いざとなれば汚れるのにも虫に食われるのにも抵抗はないけど、好んで外でしたいほど野性的でもないかなあ。
「ここで」と言いながらカーテンを左右に開け放つと、真っ正面から陽光が溢れ出した。
振り返ってみれば、いっそう強い光に顔をしかめた悟浄の髪はますます明るく、きらびやかに見えて。四角い日溜まりの中が、まるで日常から切り離された小部屋のように感じられた。
ずっと見ていられたらどんなにいいだろうか。しっとりと重く色濃くなった紅い髪が、光の中、白く暈けた肌に貼りつく様を。乾いたそばからまた汗に濡れて絡まり乱れゆく様を。
そして同時に思う。初めて見た「あの姿」と正反対だ、と。
灯りもない夜の道、霞みゆく視界の中では色なんて分かる筈もなく。すらりと伸びた細い背も、頬にかかる長い髪も、闇に溶け込む不気味な影でしかなかった。喩えるなら、お迎えに来てくれた死神といったところか。となると差し詰め今の彼は――
「天使ですかねぇ」
「は?」
「あー、やっぱりナシで」
こんな不機嫌そうに凄むヤンキー面の天使が居ては堪らない。もちろん死神なんて器じゃないことも、初めて眼を見た瞬間に分かってしまったけれど。そんなひとに血の色を重ねた僕は自分勝手だったのだろうか。はたまた、彼の内側に燻る血のにおいを嗅ぎつけていたからこそ、あんなことを口に出したのだろうか。
「ねぇ、悟浄」
じりじりと肌を灼く陽射しを項に感じながら、悟浄の背に手を回した。大した抵抗もなく身体が此方に凭れかかる。ふわりと髪が舞った瞬間、鼻腔を擽るシャンプーの香りに思わず生唾を呑み込んだ。口を突きそうになる想いを抑えるのも、正直そろそろ限界だ。
「……髪、綺麗とか言われるの、嫌じゃないですか?」
綺麗な赤ですね――なんて遠回しな言い方こそしたけれど、はっきりと口に出すことは躊躇っていた。それが美しいことを認めてしまえば、欲望の対象であることを伝えてしまえば、あのとき僕らを結んだ糸が切れてしまう気がしたから。
だから密かに思い切って尋ねたというのに、悟浄は「はッ」と脱力したように一声笑うだけだった。
「べーつに。そりゃどーもってカンジ?」
何でもなさそうな調子で返された言葉は、きっと昔の彼からは出てこなかった物なのだろう。
いつからかは分からないけれど、僅かずつかもしれないけれど、わだかまりは確かに融け始めている。えにしの糸は、確実にその数を増して撚り合わさっている。容易く切れることなどない程に。そういうことなら、これからは幾度でも惜しみなく。
「綺麗、というか。……色っぽいです、すごく」
「……そ」
そりゃどーも、とすら言ってくれない彼は素っ気なくそう呟いて、髪に口づける僕の頭をくしゃりと撫でた。
髪に、眼に、唇に、舌に、見渡す限り散らばる紅。ただ戒めの色だった筈のそれに、煽られるような感覚を覚え始めたのはいつだったか。
唇を離しつつ頭を支えていた手を滑らせ、湿った髪を撫ぜる。ここにいれば自然に乾くかな。傷んでしまうかもしれないから、後でちゃんとケアしないと。
――そういえば本当に髪の毛だけなのかなぁ、紅いの。ちゃんと陽に透かして見たら、そこもかしこもうっすら紅かったりして――
「……んだよ」
「いえ、何でも」
額に汗を浮かべ始めた彼の機嫌をとるように、冷房を見たこともない温度に下げた。
内緒で目の奥に焼きつけてしまおう。目映い光の射し込むうちに。
いとおしい色を隠してしまう、夜のくるまえに。